素直とは一体なんだ?

あぁ、明日のバイトが嫌だ。来ないでくれ。もやもやとして嫌になる。心が晴れないとはこういうことか。

吐きそうだ。いや、絶対吐かないという自信はある。美味しくないからね。


なんて言いつつ多分、明日はきちんと朝に起きて、それからご飯を食べて、歯を磨いて顔を洗い、外に出られる程度の衣服に着替えて家を出るんだ。


それから、ちゃんと伝えるべきことを伝える。申し訳なさそうな表情を作り、申し訳なさそうに言う。とりあえずそうすればえすれば、事なきを得られるであろうから。

昨日の文だってそうだ。そういったことを思えば、言えば。さすれば、「ちゃんと自分のことを分析できている」と周囲から思われる。そういうことを知っている。

顔には出さないで、いつも通りと同じに見せることができる。面の皮が厚いと自分で思うし、おそらくそうなのだろう。


今回は自分の生活に支障が出るほどにシフトを詰められたから、変えてもらうように言った。結果変えてもらえたし、確かに悪いとは思うけれども、学生で、しかも忙しいと言っている人間にほぼ休む日のないほどのシフトを渡してくる方が問題だと思う。要するに、わたしは自分が悪いと思ってないのだ。これっぽっちも。それなのに謝らなければならないし、空気は悪いし、そう言った態度を作る体力と労力が面倒だ。

昨日と言っていることが違う?そうだろう。だって昨日のは、そう思う姿勢が世間的に評価されるだろうから、ちょっと言ってみただけだ。嘘っぱちだ。何が悪い。

自分に多大な損害が与えられたわけではないのに、なぜしおらしくしなければならない?

わたしはおそらく、自分が死に瀕するようなことでもない限り、猛省することはないだろうし、そのような状況下においては「まぁ仕方ないか」と自分を許してしまう。

反省が出来ないのかもしれない。

反省をしたくないのだろう。


とりあえずこうすればいい、喜ばれる。


例えば、小学生の頃。度々将来の夢について尋ねられ、文章に書かされるという機会があった。当時、わたしには夢なんかなかった。10年経った今でも、夢はない。宇宙飛行士になりたい訳でも、サッカー選手でも、花屋でも、おもちゃ屋になりたい訳でもない。

だからその課題を出される度に困った。

周りに合わせるでも良かったが、それではつまらないと思った。どうせ何を書いてもつまらない。

ならば、大人の喜ぶようなことを書けば良いのではないか。

将来の夢に関する課題は、思ったよりも長く出され続けた。確か高校でもそのような物を出された記憶がある。それに対する回答を、わたしは小学生の頃から変えたことはない。非常に汎用性が高くて喜ばれるから使いまわしてきた。

「先生のような人になること」だったりだとか、「公務員」あたりの、大人が安心したり先生が喜ぶことを書いてきた。そのお陰か、同学年での友人は少なかったが、先生からは好かれていたと思う。先生の車に乗ってカブトムシを採集しに行ったり、サクレレモンを買ってもらったり、プーさんのぬいぐるみを貰ったことだってある。…なんかこれ問題じゃないか?過ぎたことではあるけれども。


授業中なんかでは、先生に当てられた時、他の生徒は小さい声でぼそぼそと回答していたが、わたしははっきりと「○○だと“思います”」と言っていた。

だと思います、というのは良い言葉だと思う。間違いだったとしても逃げられる。回答を知っている時にも態と使ってきた。

回答が分かっている時に使う意図は、「(本当は知っているのに)自信ないけど正解なんですね、良かったです>< 」みたいな、いや、本当に意味のない、くだらないカッコつけだ。逃げ道を作っておきたい。まっすぐ当たって砕けたくない。


こうしてずっと逃げている。


わたしの逃げグセは筋金入りだし、死ぬまで治らないと思う。反省して受け止めたくないのだ。ガキだから。自分が悪いと思いたくないのだ。自分が可愛いから。


だから明日も、「態度だけでも、反省はした」けれども、「それ以上はない」ように振る舞うのだろう。

それは本当に疲れる。だから嫌なのだ。行きたくない。無駄に疲れるから。



ところで、面接とか履歴書になんて書いたと思います?素直って書いたんですよ。

素直な風に見えるように、その場で咄嗟に取り繕えるから。周りからも素直って言われるし。

でも実際はこうして素直に見える努力してんですよ。やめりゃ良いのにね。

きっと良い人に見られたいんだ。

聖人君子にでもなりたいのかもしれない。

向いてないのにね。